住まいは文化

一覧へ
2011年2月2日更新

先人たちが遺してくれた住まいづくりの知恵 「住まいは文化」

名古屋市東区 「名古屋市旧川上貞奴邸」

和洋の長所を生かした環境共生住宅


それぞれの画像をクリックすると別ウィンドウで大きな画像が表示されます。

大正9年、名古屋市東二葉町に建てられた赤瓦葺きのマンサード風屋根が異彩を放つ「川上貞奴邸」。日本で最も早く創業した洋風住宅専門会社の一つ「あめりか屋」が手がけたもので、洋館と日本家屋が連結した住宅でした。

大広間は華やかな社交場だった。あめりか屋が同時代に建てた住宅などを参考に復元。ステンドグラスや半円形ソファ、寄木張り床の一部に創建時の部材を使用している。

日本初の女優・川上貞奴と
電力王・福沢桃介の邸宅

1920(大正9)年、名古屋市東二葉町に赤瓦葺きのマンサード風屋根が異彩を放つ「川上貞奴邸」が竣工しました。日本で最も早く創業した洋風住宅専門会社の一つ「あめりか屋」が設計・施工したもので、日本初の女優・川上貞奴と木曽川の水力発電所建設に尽力した福沢桃介(ももすけ)の邸宅です。政財界人のサロンともなった豪華な邸宅は洋館後部に和風の館をつないだ斬新な形で、近代化する住宅の一時期の姿が見られました。

4本柱の車寄せや、扇垂木形式の円すい屋根が目を引く正面玄関。2階外壁は色モルタルを掃き付けたドイツ壁。多様な様式の屋根、壁を組み合わせた装飾性の高さに特徴がある。大正9年頃の外観写真による推定復元。

洋館と平屋の和館が連結した
過渡的な洋風建築

明治維新以降、さまざまな西洋文化が暮らしに取り込まれますが、住宅の近代化は上流階級の邸宅から始まり、徐々に浸透していきます。
明治中期頃まで、洋館は独立して建てられ、旧来の日本家屋と渡り廊下で結ばれる様式が主流でした。これに対し、川上邸は2階建ての洋館と、黒瓦葺き屋根に下見板張りの外壁を持つ平屋の和館が連結しているのが特徴です。大正期以降には、独立した洋館の中に和・洋室が混在する建て方が現れてくることから、川上邸は2つの様式の中間期に位置するものと考えられています。

らせん階段は現状より急勾配で、幅も狭かったが、現行法規に適合する形状とした。


社交場としても利用された
大正時代の電化住宅

邸宅の住人、福沢桃介は電力王と称された人物。桃介は名古屋に拠点を構える必要があり、事業のパートナーとして貞奴を呼び寄せたともいわれています。貞奴は伊藤博文などにひいきにされた元芸者で、女優第一号としても有名であったため、社交・接客役を務めました。

小高い丘に建つ邸宅には電灯がこうこうと輝き、電動の噴水がある庭園をサーチライトが照らしました。電灯が一家に一灯だった時代に、先進の電化住宅でもあったのです。連日、洋館で催されるパーティに集う人々はステンドグラスや、らせん階段に魅了されたことでしょう。洋式の食堂で食事も供され、華やかな宴が繰り広げられました。

一方、和館には畳敷きの婦人室や茶の間などがしつらえられており、貞奴が親しい友人を迎えたのはこちらでした。社交の場だった洋館に対し、和館は2人が普段の暮らしを営む場所でした。

あめりか屋は、洋風住宅専門会社のさきがけとして、日本の住宅に新風を吹き込みました。和洋の建築様式は住宅近代化の途上で次第に融合し、それとともに公的、私的な営みが住宅内で共存するようになります。川上邸はそうした変遷の一時期を現代に伝える貴重な建築物です。

2人がプライベートな時を過ごした和室。左の建具を開けると洋風の廊下に出る。

洋館から和館へ延びる廊下。左は和室だが、建具の廊下側を洋風にすることでデザインの調和を図っている。

ここの外観は洋風であるため、窓と和室の間に縁側を設けて緩衝帯とし、双方の趣が生きるように工夫した。奥に洋風の書斎が見える。

創建当初の配電盤。自家発電装置も備えていた貞奴邸は停電知らずだったという。




川上邸は1938(昭和13)年の改築で洋館が撤去されるなど、創建当初とは姿を変えてきました。このため、創建時の写真や資料、関係者の証言を基に、残された部材を最大限活用して、2005(平成17)年、「文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸」として現在地に移築・復元されました。

メールでのお問い合わせ

ソリューションに関する営業お問い合わせは、お問い合わせフォームからお願いします。

PAGETOP