住まいは文化

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2012年6月13日更新

先人たちが遺してくれた住まいづくりの知恵 「住まいは文化」

愛媛県喜多郡内子町 「上芳我(かみはが)邸」

木蝋づくりで一時代を築いた内子の商家


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愛媛県の内子町は、かつて、金刀比羅宮参拝の旅人が行き交う松山街道の宿場。明治期には上質の蝋(ろう)の産地としても知られ、世界にその名をとどろかせました。製蝋で財をなした豪商の一軒が木蝋資料館上芳我邸として公開され、往時の姿を伝えています。

主屋の店の間。涼しい床下に蝋を保管するスペースが設けてある

ろうそくの原料となる木蝋を
世界ブランドにした豪商

江戸時代、内子では大洲藩の殖産興業の施策によってハゼを栽培。実からろうそくの原料となる木蝋(もくろう)を生産しました。内子最大の蝋商・本芳我家の弥三右衛門が江戸後期に新しい製法を考案すると品質は向上、生産も効率化。明治期には「旭鶴」という商標を使ってパリ万博で表彰を受けるなど、世界でも評価されるブランドとなりました。上芳我家は本芳我家の13の分家の一つで、蝋を生産・販売した豪商です。

上芳我邸は、蝋垣と呼ばれる防犯用の垣根を巡らした広大な敷地に主屋などの居住棟と、釜場や出店倉といった蝋の生産施設が残る貴重な遺構です。土蔵造の主屋は旧街道側の2階に虫籠窓、1階に出格子が見られるほか、製蝋作業場に面した南面は浅黄色を帯びた漆喰壁で、腰をなまこ壁としています。これらは内子の伝統的な商家のたたずまいです。また、2階の座敷が建設途中のままであるために、重厚な小屋組が見られるのも特徴。南面のひさし付き窓には明かり取りと、中庭での作業をのぞく用途があったと考えられています。

豪壮な構えの主屋から上芳我家の繁栄ぶりがうかがえる。多くの職人を抱えていたため、炊事場(右)も大きい


さまざまな装飾やしつらえで
都会の商人をもてなす

主屋はその棟札から、商いの最盛期頃にあたる明治27(1894)年建造と知られ、その後、約10年の歳月を費やして炊事場や仕舞部屋、産部屋、離れ座敷が普請されました。
良質の材木を多用した主屋の風情をはじめ、こて絵を施した持ち送りや帆かけ型の鳥ぶすま、客間の合わせ欄間の装飾にも風格が漂います。このように住まいを立派にしつらえた背景には、都会から来る商人と対等に取引しようとする狙いがあったともいわれています。
平成2(1990)年、建物10棟と敷地は国の重要文化財に指定されました。

最盛期、内子には23軒の蝋商があった

蝋を精製する釜場。生蝋は日に晒すと白くなる

坪庭を囲んで部屋を設け、回廊で行き来した

かまどや洗い場など、当時の炊事場の姿がよく残っている

風呂場。床は余熱で温められる仕組み

建設途中の2階座敷


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