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Vol.6

旧柳宗悦むねよし邸(日本民藝館西館)
[東京都目黒区]

民藝の美が息づく昭和初期のモダンな住宅

小梁現しの漆喰天井とベイウインドウが特徴的な柳宗悦の書斎。手仕事の粋を感じさせる障子には建具へのこだわりも感じられる。

東京都目黒区の旧柳宗悦邸は民藝運動を普及した思想家の邸宅。実用的な、「ふつう」の工芸品に美を見いだした柳は、「民藝」の美意識を自らの暮らしを通して表現。家具や食器はもとより、建物も伝統的かつモダンな美しさをたたえている。1935(昭和10)年竣工。邸宅・大谷石の外壁・長屋門は東京都指定有形文化財。

①大谷石の屋根・腰壁が美しい長屋門。柳は石屋根の重厚な造形美を好んだ。門左を応接室、右を妻・兼子の音楽室に改装した。
②化粧垂木やかえる股など、伝統的な和風の意匠が目を引く。
2階出窓や持ち送りがモダンな印象の主屋。当時としては珍しく1階の一部にしか雨戸がないなど、随所に柳のデザインが息づく。

日本で西洋美術が礼賛された近代、柳宗悦は無名の職人が手がけた日用の工芸品に美を見いだした。1925(大正14)年、河井寛次郎・濱田庄司と「民藝(民衆的工芸)」という新語を作り、日本の伝統美をベースに洋の東西を超越した新しい美を探究する民藝運動を展開、昭和11年には日本民藝館を建設した。筋向かいに建つ自邸はその前年の竣工である。

自邸は長屋門と主屋からなる。昭和9年、明治13年建築の豪農の長屋門を栃木県から移築。柳は大谷石の屋根・腰壁を持つ長屋門に引き戸・壁をしつらえ、床には四角形の溝を切った大谷石を敷いて玄関とした。

翌年、柳が設計した主屋が竣工。居室は南北に並び、中廊下に設けた段差や表・裏2つの階段で公私の区別を意識したと思われる。

奥の2部屋が家人用和室であるのに対し、玄関寄りの食堂は板間、漆喰天井で洋風のしつらえ。当時はテーブルが置かれ、民藝の同人など、多くの来客が集った。続く客間は小上がりの和室で、食堂の椅子座の人と視線が合う工夫が見られる。仕切りの建具を取り払って2間続きにし、宴を催したことも現代の住まいに受け継がれるスタイルとなった。

高句麗の古墳内壁画写真や朝鮮時代の鉄鉢、柳が監修した椅子が置かれた長屋門内部。豪壮な梁と調和する右手の窓枠も柳の考案。
当時はテーブルと椅子が置かれていた食堂。和室と続き部屋になる。
和洋の意匠が柳特有の美意識によって組み合わされた。
応接室。床の間は椅子座に合う高さに設計された。
付書院のある1階南側奥の客間。初めは母の居室であったため、柳が女性を意識した繊細な装飾でしつらえた。母の没後は柳夫妻の居室となった。

柳の書斎は2階中央にある。自らデザインした造り付け書棚、民藝同人の黒田辰秋作の机、イギリス製のゆったりした椅子が思索の時間をしのばせる。ベイウインドウ(洋風出窓)や、食堂にも見られる切子格子風の障子など、多様な文化を背景とする美が調和している。

柳と声楽家の妻、母、3人の息子たちは、柳が美意識を駆使して建てた邸宅に住み、民藝の美を備えた調度品、食器を使って暮らした。美は暮らしに寄り添うと考えた柳の思想がここで実践され、さらに民藝の美を伝える日本民藝館へと受け継がれていった。

①書斎の三方に書棚があり、膨大な蔵書を収めた。
②書斎引き戸。柳の指示で桟を面取りにした。
長男・宗理のアトリエでもあった部屋。造り付けのベッドがある。
中廊下と裏階段。邸内には2つの階段があった。
裏階段をのぼると、息子たちの部屋近くに洗面台がある。
用語解説
【河井寛次郎・濱田庄司】
民藝運動の同人。ともに陶芸家。
【長屋門】
武家の門形式の一つだったが、明治維新以降、富裕な農家にも普及した。
【黒田辰秋】
民藝運動の同人。漆・木工家。

東京都目黒区駒場4-3-33

協力
公益財団法人 日本民藝館

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