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Vol.8

名古屋市旧川上貞奴邸[名古屋市東区]

大正期のモダンな暮らしを育んだ住まい

大広間は華やかな社交場だった。あめりか屋が同時代に建てた住宅などを参考に復元。ステンドグラスや半円形ソファ、寄木張り床の一部に創建時の部材を使用している。

1920(大正9)年、名古屋市東二葉町に赤瓦葺きのマンサード風屋根が異彩を放つ「川上貞奴邸」が竣工した。日本で最も早く創業した洋風住宅専門会社の一つ「あめりか屋」が設計・施工したもので、日本初の女優・川上貞奴と木曽川の水力発電所建設に尽力した福沢桃介ももすけの邸宅です。政財界人のサロンともなった豪華な邸宅は洋館後部に和風の館をつないだ斬新な形で、近代化する住宅の一時期の姿が見られた。

4本柱の車寄せや、扇垂木形式の円すい屋根が目を引く正面玄関。2階外壁は色モルタルを掃き付けたドイツ壁。多様な様式の屋根、壁を組み合わせた装飾性の高さに特徴がある。大正9年頃の外観写真による推定復元。
マンサードと切妻を組み合わせたユニークな屋根。マンサード屋根は、当時のあめりか屋軽井沢出張所の建物にも用いられた。

明治維新以降、さまざまな西洋文化が暮らしに取り込まれるが、住宅の近代化は上流階級の邸宅から始まり、徐々に浸透していく。明治中期頃まで、洋館は独立して建てられ、旧来の日本家屋と渡り廊下で結ばれる様式が主流だった。これに対し、川上邸は2階建ての洋館と、黒瓦葺き屋根に下見板張りの外壁を持つ平屋の和館が連結しているのが特徴である。大正期以降には、独立した洋館の中に和・洋室が混在する建て方が現れてくることから、川上邸は二つの様式の中間期に位置するものと考えられている。

2人がプライベートな時を過ごした和室。左の建具を開けると洋風の廊下に出る。

邸宅の住人、福沢桃介は電力王と称された人物。桃介は名古屋に拠点を構える必要があり、事業のパートナーとして貞奴を呼び寄せたともいわれている。貞奴は伊藤博文などにひいきにされた元芸者で、女優第一号としても有名であったため、社交・接客役を務めた。

小高い丘に建つ邸宅には電灯がこうこうと輝き、電動の噴水がある庭園をサーチライトが照らした。電灯が一家に一灯だった時代に、先進の電化住宅でもあった。連日、洋館で催されるパーティに集う人々はステンドグラスや、らせん階段に魅了されたことであろう。洋式の食堂で食事も供され、華やかな宴が繰り広げられた。

一方、和館には畳敷きの婦人室や茶の間などがしつらえられており、貞奴が親しい友人を迎えたのはこちらだった。社交の場だった洋館に対し、和館は2人が普段の暮らしを営む場所だった。

あめりか屋は、洋風住宅専門会社のさきがけとして、日本の住宅に新風を吹き込んだ。和洋の建築様式は住宅近代化の途上で次第に融合し、それとともに公的、私的な営みが住宅内で共存するようになる。川上邸はそうした変遷の一時期を現代に伝える貴重な建築物である。

洋館から和館へ延びる廊下。左は和室だが、建具の廊下側を洋風にすることでデザインの調和を図っている。
ここの外観は洋風であるため、窓と和室の間に縁側を設けて緩衝帯とし、双方の趣が生きるように工夫した。奥に洋風の書斎が見える。
創建当初の姿を残す2階仏間。網代天井は屋久島から取り寄せた屋久杉で作られた。
創建当初の配電盤。自家発電装置も備えていた貞奴邸は停電知らずだったという。
らせん階段は現状より急勾配で、幅も狭かったが、現行法規に適合する形状とした。
当時の有名なデザイナーであり、福沢桃介の義弟・杉浦非水の原画をもとに作成したステンドグラス。

川上邸は1938(昭和13)年の改築で洋館が撤去されるなど、創建当初とは姿を変えてきた。このため、創建時の写真や資料、関係者の証言を基に、残された部材を最大限活用して、2005(平成17)年、「文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸」として現在地に移築・復元された。
(2010年撮影)

名古屋市東区橦木町3丁目23番地

協力
文化のみち二葉館
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