炭鉱王の歩みを映す大邸宅
Vol.13
炭鉱王の歩みを映す大邸宅
筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門の本宅が福岡県飯塚市に残されている。立志伝中の人物は、事業拡大に後押しされるかのように明治末期から昭和にかけて増改築を繰り返し、約2300坪の敷地内に25室の大邸宅を築いた。華族出身の妻・白蓮ともここで約10年間、暮らしている。
飯塚市幸袋の長崎街道沿いに伊藤伝右衛門邸が創建されたのは明治39(1906)年頃。社会は日露戦争による好況下で、貧しい暮らしから身を起こした伝右衛門は炭鉱事業を拡大、社会的に進出した頃であった。邸宅の本座敷は15畳、おさ欄間や四方柾目の床柱をしつらえた格式高い書院造りで12畳の次之間もあった。
大正6(1917)年、世間が第一次世界大戦のもたらした空前の好景気に沸いていた頃、大正2年に続いて増築を行った。この増築には二つの大きな変化がある。一つは南棟を建て増して表玄関と洋式の応接室を造ったこと。イギリス製タイルを貼ったマントルピースやステンドグラスのある応接室は、西洋文化を取り入れるためにしつらえたものともいわれ、他の炭鉱主の邸宅にも見られた。二つ目は、明治44(1911)年に後妻に迎えた柳原燁子(白蓮)のための普請。白蓮は大正天皇の従妹にあたる。その妻のために京都から職人を呼び、本座敷のある北棟の東端に2階建て4室を増築した。2階の座敷は数寄屋風で、随所に繊細な装飾が見られる。また、北に広がる庭園を望むのに格好の位置であった。次之間を茶室の体裁としたのは結界を意識したものと伝えられており、使用人は入室せずににじり口風の小窓で用を足したという。
その後、昭和に入って福岡市の別邸から長屋門を移築。北棟南側を曳家して南棟につなげるなどの変更を行っている。伝右衛門は炭鉱主の印象から想像される豪壮な建物ではなく、細部にまで目の行き届いた上品な邸宅を建てており、建築技術や装飾など、その価値は高く評価されている。
福岡県飯塚市幸袋300番地