関東大震災後に外国人が住んだアパートメントハウス
Vol.14
関東大震災後に外国人が住んだアパートメントハウス
神奈川県横浜市の山手地区は外国人居留地として開け、明治中期から洋館が建ち並んだ。関東大震災で壊滅的な被害を受けたが、昭和初期に再び、山手234番館などの洋館が建てられ、一部が今日に受け継がれている。山手234番館は4戸の共同住宅で、半世紀の間に多くの外国人が暮らした。
大正12(1923)年の関東大震災で、東京や横浜は灰燼に帰した。横浜の山手地区は幕末の横浜開港後、外国人の住宅が集まる異国情緒あふれる町であったが、ほとんどが倒壊。被災した住民の多くが横浜を去った。その復興事業として、昭和2(1927)年頃に建てられた外国人用共同住宅が山手234番館である。
地震や火災に強いモルタル外壁や、軽量のセメント瓦を採用した木造2階建ての建物は日本人建築家※1の設計で、賃貸住宅ながらベランダの手すりやポーチの円柱にモダンなデザインを施している。上げ下げ窓やよろい戸、煙突も洋館らしいしつらえである。4戸は同じ間取りの3LDKで、約100㎡。当時の日本人の共同住宅の3倍ほどあったという。浴槽と洗面台、便器を1室に集めた浴室の造りや、使用人室の存在も外国人の生活様式をしのばせる。
※1. 朝香吉蔵。横浜の桜木町に事務所を構え、和洋の建物を手がけた。山手234番館建設に関する詳細は不明。
玄関は建物正面のポーチに集められ、ドアを開くと1階の2戸は直接、居間へ、他は2階への階段に続いていた。階段は各戸が独立した住まいになるように、壁で仕切ってあった。建物中央の光庭は各戸の採光と、浴室の湿気を逃がす役割を担った共有スペース。また、暖炉用煙突を上下階の2戸で共用するなど、共同住宅らしい工夫もみられた。
住人はアメリカやドイツ、イギリスなどの教師、商社員、船長、米軍関係者で、多くが数年間で入れ替わった。第二次世界大戦開戦直後には、外国人住人が抑留されたこともあったという。
住人の求めに応じて改修が繰り返されたが、昭和55(1980)年頃まで共同住宅として利用された。平成元年、歴史的景観の保全を目的に横浜市が購入。1戸分を創建当時に復元して平成11年に一般公開。横浜市認定歴史的建造物として、多くの来館者を迎えている。


※2. 個室1,2は寝室やゲストルームとして使用された。個室3は創建当初にはもっと狭く、使用人室だったが、増築して別の用途にも使われた。
横浜市中区山手町234-1