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Vol.16

大原邸[大分県杵築市]

杵築藩重臣の暮らしを伝える江戸期の武家屋敷

上級武士の屋敷らしい威風堂々たる表構え。主屋の屋根には阿蘇山麓の茅が約4,000束(1束の直径は約30cm)も使用されている。

大分県杵築市の大原邸は、江戸後期に杵築藩の家老、用人など、上級武士の屋敷だったとされる建物。かつて武家屋敷が軒を連ねた城下町の高台に建ち、長屋門や風格ある茅葺き屋根の主屋、格式の高さを表す広い式台付き玄関が往時をしのばせている。大分県指定有形文化財。

武家屋敷が集まる2つの高台はともに海抜約20m。谷間の町筋の向こう、「酢屋の坂」を上った北台に大原邸が見える。
杵築藩城下町で屈指の規模を誇る大原邸は、565坪の敷地に屋敷と広い庭園を有している。

国東半島南部に位置する杵築市では2本の川が東進して海へ注ぎ、河口の丘に杵築城が築かれている。川の間に広がる城下町は、北台、南台と呼ばれる2つの高台が商家の並ぶ町筋を守るように挟む珍しい地形である。江戸時代、武家屋敷は高台上に集められ、城下町は天然の要害ともいえる姿であった。

家老屋敷が並ぶ北台武家屋敷通りに面した大原邸の長屋門。観音開きの大門の左右に使用人の部屋がある。

北台に建つ大原邸は杵築藩重臣の屋敷の中でも随一の規模を誇り、藩主松平氏ゆかりの建物ともいわれている。江戸後期、嘉永年間(1848~54年)の藩士帳に用人・大原文蔵の名前があり、明治元年(1868年)の絵図にも大原と書かれている。また、古文書『居宅考』によると大原家以前には家老・中根斎や、岡三郎左衛門が使用していた事が記されているため、大原家が当屋敷に住むようになったのは江戸後期と考えられている。

庭園を望む座敷。来客を迎えるためのしつらえは白壁、高麗縁の畳であり、欄間はなく、床の間の造りも簡素である。来客は式台から玄関ノ間、次ノ間を経てここに案内される。
仏間(手前)には天井の一部を高くした弓天井がある。武士達は日々、武道の鍛錬を怠らず、雨の日もここで祖先に見守られながら弓の稽古や精神統一に励んだとされる。

屋敷正面の長屋門は左手に中間部屋、右手に門番部屋や馬小屋を設けた桁行八間半の堂々たる構え。また、入母屋造茅葺き屋根の重厚な玄関や間口2間の式台も格式の高さをうかがわせ、上級武士の屋敷であったことを伝えている。

広大な回遊式庭園。石や池の中島を亀に、また松を鶴に 見立てた造りは家の繁栄を願ったものという。

主屋の部屋は公私を区別してしつらえ、来客用座敷と次ノ間は白壁、高麗縁の畳敷き。これに対し、主人夫妻の寝所である控ノ間をはじめ、家人用は土色の泥壁で、畳縁は模様無しとしている。仏間に天井の一部を一段高くした弓天井があるのも特徴の一つ。室内で弓の稽古をするための工夫で、武道に励む姿を祖先に見てもらうためであったという。華美な欄間などの装飾はなく、質実剛健を旨とした武士の暮らしが垣間見える。
大原邸は整った回遊式庭園も有するなど、江戸期の武家屋敷の佇まいをよく残しており、杵築市における貴重な遺構となっている。

式台の奥に設けられた玄関ノ間。魔除けの意味を持つとされる赤色の壁が特徴。
かまどの煙で吹き抜け天井をいぶし、屋根の虫除けとした。
湯殿。風呂は行水程度。排水で 馬を洗うなど、水を大切に使った。
用語解説
【杵築藩】
江戸時代に豊後国国東郡・速見郡を領有した藩。譜代大名松平氏が1645年から明治まで10代にわたって治めた。
【用人】
江戸時代、主君のそばに仕え、出納・雑事を担当する者。
【中間】
武家などで召し使われた男の呼称。
【高麗縁】
白地に黒い連続模様を織り出した畳の縁。

(2016年撮影)※内装の一部が現在とは異なります。

大分県杵築市杵築207

協力
杵築市
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