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Vol.19

太田家住宅(旧中村家住宅)
[広島県福山市]

海路の要衝・鞆の浦で栄えた御用名酒屋の邸宅

保命酒を商った店の間(写真手前)や玄関の間が並ぶ主屋1階。松煙で染め付けた梁や柱は松材。モダンな意匠の土間や、縦格子を漆塗りした舞良戸が目を引く。

広島県福山市の太田家住宅は、江戸中期から明治初期まで薬味酒として名高い保命酒を製造、専売した豪商、中村家の邸宅(後に太田家が取得)。かつて瀬戸内海有数の商港だった鞆の浦に面し、顧客であった大名や公家も訪れた名家で、他にも多数の建物を所有していた。国指定重要文化財。

常夜燈など、江戸期の港湾施設が残る鞆の浦。太田家住宅はその中心部に位置する。旧所有者の中村家は保命酒の独占製造販売で隆盛を極め、邸宅近くの海を私費で埋め立てて多くの蔵を建てた。
客が訪れる土間の網代天井。一方、私的空間の奥土間はすだれ天井とし、茶道のもてなしに通じるしつらえを施している。
面皮の長押を回した大広間は賓客の接待に使った。小庭の向こうの大手塀は高さ4m程。通りの喧騒を遮り、防犯にも一役かった。白色なので反射光が大広間に入る。

瀬戸内海の中央部に位置する鞆の浦は、古く万葉の時代から潮待ちの港として賑わい、近世には参勤交代の船や北前船、朝鮮通信使船、オランダ商船も寄港した。
江戸期の貞享2年(1685年)に福山藩御用名酒屋となった中村家は、十六味地黄保命酒製造・販売の独占権を得て繁栄していった。主屋は18世紀中期の建造で、その後、地所を拡張して保命酒蔵などを次々と増築している。

水屋がふすまに囲まれているのは、どちらの客間でも茶を点てられる工夫。
2階客間
客が寛げるよう、階段に跳ね上げ式の間仕切り戸を設置。

主屋では、瓦と三和土を四半敷きの市松模様にした土間に沿って商売用の「店の間」「玄関の間」、数寄屋造風の家人の居室が並ぶ。
その右奥には接待用の客間などをしつらえ、1階の部屋数は17室にのぼる。当時、茶道は大商家の主人の嗜みであったので、一畳台目の茶室だけでなく随所に水屋や炉を設け、全客間で茶を供した。土間の網代天井も茶道ゆかりの趣向とされる。「大広間」「上の間」は書院造風の客間で、家人用居室の多くが紅殻壁であるのに対して白に近い壁色である。
大名の接待にも用いたため、通りから御成門を通って入って来られるようにしている。幕末には都落ちした三条実美らも訪れたという。

炊事場。かまどのたき口は土間を掘り込んだ位置にある。石を粗く積んだ壁から入る海風を利用して火を保つ仕組み。
家人が食事などで使ったと思われる部屋。炊事場の向かいにある板張り部分は収納スペースになっている。

鞆の浦には参勤交代の一行などが滞在したため大商家の中村家を筆頭に宿を兼ねる商家が多かった。主屋は2階にも7室があり、通りを望む客間に江戸期の商家としては珍しい大開口の窓を持つのも、そうした背景による。
太田家住宅は江戸期の商家の特徴を良く残しているだけでなく、釜屋や仕込み蔵といった酒造施設の全てが現存する点でも貴重である。6棟の蔵は18世紀後期~19世紀前期に建てられ、梁の形状が時代によって変遷しているのが分かる。また、防虫効果を期待して浜に埋め塩分を含ませてから使用した「塩木」の梁も特徴の一つとなっている。

酒槽や古備前のかめが残る保命酒蔵
巨大な塩木の梁がある新蔵
用語解説
【太田家】
明治~昭和期に海運、船舶業で活躍。農商大臣等も務めた。
【潮待ちの港】
鞆の浦沖で東西から流れる潮が出合うため、満潮、干潮を待つ船が停泊した。
【十六味地黄保命酒】
もち米・米麹・焼酎を主原料とする酒に高麗人参・桂皮・陳皮などを漬け込んで作った薬味酒。鞆の浦の名産品。
【四半敷】
瓦敷きなどで、目地が縁に対して45度になるよう斜めに敷いたもの。

広島県福山市鞆町鞆842

協力
鞆酒造株式会社

主屋2階、西蔵、新蔵は非公開

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