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Vol.22

二階堂家住宅
[鹿児島県肝属郡肝付町]

鹿児島県南部で江戸期から受け継がれる郷士の館

二階堂住宅では軒の方向が異なる茅葺屋根の建物が接近して建っている。内部に2棟を接続する部屋があり、行き来できる。

鹿児島県肝属きもつき郡(旧高山こうやま町)にある二階堂家住宅は、それぞれに茅葺き屋根を持つ建物2棟を接続し、内部はひと続きとする分棟型民家である。江戸期の文化7(1810)年と明治22(1889)年頃の建造で、郷士であった二階堂氏の格式の高さも伝えている。昭和50年、国の重要文化財に指定。

「おもて」の東、南面には竹葺きの庇が付く。孟宗竹を2つ割りにして節を取って並べ、その上から竹を被せている。
庇の裏から見た竹の樋と木の樋受け。

鎌倉期、幕府の御家人であった二階堂氏が薩摩へ下向。戦国末期に主君の島津氏から高山の大林坊でれんぼ跡地を下賜され、江戸期には高山郷士、大林坊住職として地域を統括した。
現存する二階堂家住宅は用途が異なる2棟、すなわち来客や主人用の棟である「おもて」と、「うすにわ(土間)」があり、家族が起居する「なかえ」からなる。「おもて」は文化7年建造で、「なかえ」はその約80年後に建て替えられた。「おもて」に床・床脇を備えた「とこのま」を造り、また通常は「なかえ」内で前面に配する土間を裏手に回すなど、しつらえには武家の格式が感じられる。

「おもて」の濡れ縁は踏み石のある所で板の張り方を変えている。
「おもて」の前は石橋や灯籠のある日本庭園。移築前は写真奥に2棟が建っていた。
「うすにわ」。板の間を斜めに作ったのは土間を広く取る工夫。
囲炉裏のある「なかえ」は家族の生活の場。2棟がずれて建っているのを利用して、東面に風通し用の蔀戸を設けている。
「なかえ」(写真手前)の向こうに見える板の間が「といのま」。これにより接客などの空間と日常空間が繋がった。

敷地内に複数の建物を有する様式は、古くは各棟が独立する多棟型であったが、やがて1棟内に機能が集約されていく。その変遷の中間形態が分棟型と考えられている。当住宅の2棟は軒がほぼ接するほど近く、その間に孟宗竹の樋を並べて両棟の屋根からの雨水を処理。樋の下、2棟の接続部に「といのま(樋の間)」と呼ばれる板敷きの部屋を作り、内部で行き来出来るようにしている。

「といのま」。竹樋の上が2棟の茅葺屋根の谷。
南側に付き出した樋。
樋に傾斜を付け、北側で雨水を排水。
「おもて」西側の部屋。面取りした梁、竹を組んだ屋根裏が見える。
昭和初期以降には春と秋に畳を上げ養蚕を行った。そのための囲炉裏。

建物は南面し、「なかえ」は「おもて」から1間半、北にずれて建っている。こうした雁行型配置は鹿児島県南部の分棟型民家の特徴である。また、庇や納戸の床、屋根裏に竹材を多用していることにも地域性がうかがわれる。県南部にありながら、断熱性に優れた茅葺き屋根や、「なかえ」東面に設けられた風通し用の蔀戸など、開口部の多さによって屋内は夏でも涼しいという。

浅めの奥行きの床がある「とこのま」。竿縁天井は昭和期の改築。

当住宅は地域性に富み、鹿児島県における江戸期の分棟型民家の特徴を良好な状態で伝えている数少ない遺構である。また、衆議院議員であった故二階堂進氏の生家としても知られている。

  • 昭和62年完了の二階堂家住宅保存修理工事によって、同敷地内の現在地へ移築。南向きを東向きとした。記事は元の方位で記載。
用語解説
【郷士】
農村に居住する武士
【島津氏】
鎌倉期~江戸期、南九州で栄えた大名
【大林坊】
玉庵山光台院神宮寺大林坊
【雁行】
空を飛ぶ雁の列のように斜めに並んでいる形
【蔀戸】
格子に板を張った吊り戸

鹿児島県肝属郡肝付町新富5595

協力
肝付町教育委員会
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