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Vol.23

旧長谷川治郎兵衛家
[三重県松阪市]

江戸~昭和初期にわたり拡張を続けた伊勢商人の大邸宅

伊勢街道近くの魚町通りに面して建つ旧長谷川治郎兵衛家。本うだつを上げ、袖壁や雨風よけの幕板もしつらえた風格ある表構え。昭和初期までに間口約49m、奥行き約100mの大邸宅となった。
①本うだつ ②袖壁 ③幕板 ④子持ち格子の出格子 ⑤出桁造:桁を胴差より前に出した収まり。建物が重厚な雰囲気になる。

三重県松阪市の旧長谷川治郎兵衛家は、江戸で松坂木綿を商った伊勢商人の本家。江戸中期に創建され、商売の拡大や文化交流の場とする必要から敷地を拡張、新・増築を繰り返した。30以上の部屋と5つの蔵をもつ大邸宅が伊勢商人の暮らしを今に伝える。国指定重要文化財。

江戸中期に建てられた主屋主体部。幅2間、奥行き8間の通り土間の左には使用人が食事した台所や、店の間がある。右に見えるカマドは明治期に特注の耐火レンガで作られた。
大座敷。北面に床、床脇を設け、面皮柱を用いるなど数寄の趣が感じられる。大正座敷が増築される前までは格の高い部屋として、ここで来客を迎えた。

延宝3(1675)年、長谷川家創業の祖・3代正幸は江戸大伝馬町で木綿仲買商として独立。店を支配人に任せて故郷の伊勢国松坂に戻り、江戸中期に本家を創建した。江戸に店を持つ伊勢商人の多くは故郷に居を構えて資産管理や人事を行い、手紙で江戸に経営方針を伝えた。
長谷川家は当初、現在地の中央付近に間口7間ほどで奥行きの長い敷地を得、通り土間や店の間、台所などがある主屋主体部を建てた。その後、北や南に隣接する敷地を取得して享保6(1721)年建造の大蔵をはじめ、新蔵や米蔵の新築、主屋南側の増築を順次行った。

大正座敷の広縁。杉磨き丸太の桁は約12mもの長材。小窓に無双窓をあしらい、天井は化粧屋根裏とする。
大正座敷。四方柾の檜の床柱を立てた一間半の床、床脇、付書院を備える。第2次世界大戦前は宮家も滞在した。
京都の職人が手がけた欄間の繊細な細工。見る角度で色目が変わる。

主屋の大座敷は棟札から天明2(1782)年の増築と分かっている。そのさらに北に茶室の今日庵が造営されたのは文政10(1827)年であった。この頃には、当主は紀州藩役所の御用も務めるようになっており、一方で代々の当主は余暇に茶道や俳句、和歌をたしなんだ。
大正2(1913)年、今日庵を敷地西側へ移築。翌年、跡地一帯に洗練された近代和風建築と評される大正座敷が増築された。大正座敷の広間は上質材を用いた床や付書院、繊細な細工の欄間をしつらえた本家一格式の高い座敷である。ここは宮家などさまざまな賓客の接待に使われたが、その際には通りに面した北表塀の貴人口を開き、待合や袴付のある表庭から座敷に迎え入れたという。

数寄の意匠が随所にみられる表の間。庭の向こうに貴人口が見える。
大蔵。5つの土蔵のうち、最古で最大。長谷川家に残る約87,000点の資料を順次、展示する。

長谷川家の日本庭園の中で最大規模を誇るのは敷地西側、背割排水の向こうに広がる回遊式庭園である。明治期に入って購入した紀州藩奉行所跡地で、離れや四阿あずまやなどが建つ。
建物群の中で離れだけが南西向きに建つのは、借景に松坂城の姿を楽しむためであった。商売の隆盛とともに拡張され、文化交流にも利用された長谷川家。その建物が現存し伊勢商人の暮らしが垣間見られることは貴重である。

大正座敷庭園(大座敷前)は坪庭のようで落ち着いた風情。手水鉢や人型の彫刻がみられる織部灯籠がある。
明治期に造られた敷地西側の庭園。かつて北側に移築されていた今日庵(写し)は長谷川家と裏千家の縁をうかがわせる。
用語解説
【江戸大伝馬町】
現在の東京都中央区日本橋。
【伊勢商人】
江戸時代、江戸・大坂・京都などに店を持った伊勢国出身の商人の総称。
【今日庵】
裏千家の代表的な茶室。長谷川家はその写しの造営を許された。
【背割排水】
松坂城主・蒲生氏郷が城下町づくりの際に町境に設けた排水路。

三重県松阪市魚町1653

協力
NPO法人松阪歴史文化舎
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