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Vol.25

大橋家住宅
[岡山県倉敷市]

倉敷の伝統的な街並みを形成する豪商の住まい

入母屋造、本瓦葺の主屋。2階外壁などに白漆喰を塗ってあることから塗屋造とも呼ばれる。1階中央は土間につながる表口。小作人や塩業者が出入りした。

なまこ壁の土蔵、白漆喰が塗られた主屋、長短の竪子たてごが表情豊かな倉敷格子…。倉敷には、こうした特長を持つ伝統的な町屋が残っており、1968(昭和43)年の伝統美観保存条例制定を手始めに、早い時期から美しいまちづくりが進められてきた。
大橋家は豪商として栄えた旧家で、江戸期の寛政年間に建てられた。国の重要文化財でもある建物はデザイン性と機能性を兼ね備え、倉敷らしい風情を感じさせる。

街道に面して建つ長屋門。長屋のなかほどを貫くように門を設けてあることが名前の由来。長屋には使用人の居室があった。

大橋家の先祖は豊臣家の家臣であったといい、江戸初期に京から備中へ移り住んだ。その後、新田や塩田を開発して「新禄」と呼ばれる新興大地主となり、金融業も営んで財を成した。天保の飢饉の際、金千両を献上したことで名字を許され、後に帯刀も認められる。1861(文久元)年には庄屋を務めるに至り、繁栄を極めた。

四角い目地と丸い釘隠しの漆喰がモダンな柄を描く「なまこ壁」。なまこのような形に漆喰を盛り上げてある。
長1短3の竪子がデザイン性を感じさせる倉敷格子。下部は目隠しになるように、上部は光が入るように組んである。2階に見えるのが倉敷窓。

建物は1796〜99(寛政8〜11)年の建造であると「普請覚」などが伝えている。商家でありながら街道沿いに長屋門を設け、前庭を挟んでさらに奥まった場所に主屋を配置しているのは、大橋家の格式の高さをうかがわせる特長の一つだ。

時に300もの米俵が積み上げられたという土間。「店の間」は天井を低くし、賊が刀を振り上げられないように工夫した。屋根裏の厨子にはふすまや屏風、食器などを収納した。

主屋2階の外壁や軒裏は蔵を思わせる白漆喰仕上げで、木部が覆れている。このような建築様式を塗屋造ぬりやづくりといい、火災の類焼を防ぐのが目的。白い外壁には規則正しく倉敷窓が並び、また、1階表口の左右には倉敷格子もしつらえてあり、倉敷の典型的な商家のたたずまいが整っている。

町屋には玄関を作らないのが当時のしきたりであったため、賓客はこの庭から大座敷へ上がった。
坪庭には美しさだけでなく、明かり取り、通気といった役割がある。

倉敷窓は内部の厨子ずし(物置)の採光用であり、5本の格子と、その内側に引戸がある小窓の名称だ。主屋の屋根裏には厨子だけでなく和室もあり、「厨子二階」という重層構造になっている。

来客用大座敷の奥に位置する主の書斎。窓を開くと、かつてはぼたん園が眺められた。
金品を納めた内蔵。防犯と利便性を考えて居室と接続したと思われる。

表口を入ると、主屋の西側を貫いて、通り庭とも呼ばれる広い土間が裏口まで続いている。秋には街道から直接、土間へ荷車が小作米を運び込んだ。そのため、長屋門や主屋の蹴放しの敷居は取り外せる仕組みになっている。検品を受けた米は隣接する米蔵に納められ、やがて、屋敷裏にあったとされる船着場から京・大阪へ年貢米として送り出された。
こうした荷物や普段の来客は土間へ通されたが、武士などは前庭から左へ進み、庭から座敷へ上がった。広い座敷は派手さこそ無いものの品格を感じさせる数寄屋造で、坪庭から光や風が入る快適な居住空間だ。

用語解説
【竪子】
格子や障子戸で垂直に組まれる細木。
【天保の飢饉】
1833年〜36年頃におこった全国的な飢饉。
現在の大橋家は、1995(平成7)年完了の保存修理工事によって、最も屋敷構えが整っていたとされる1851(嘉永4)年の姿に復元されている。

岡山県倉敷市阿知3-21-31

協力
大橋家住宅
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