160年間、水車が暮らしの中心にあった農家
Vol.29
160年間、水車が暮らしの中心にあった農家
東京都三鷹市の旧峯岸家は江戸後期から昭和43年までの約160年間、川の水をエネルギー源とする動力水車を使い、精穀・製粉を主な稼業としてきた農家。その建物からは水車と暮らした様子が伺え、最盛期、市内に11台あった水車の文化を今に伝える貴重な遺構となっている。
江戸時代、大都市・江戸を間近に控えた武蔵野(現在の三鷹市など)では米や麦が盛んに生産された。後期には水車による精穀・製粉を商売とする者が現れ、峯岸家がある大沢の里の野川にも多くの水車が建設された。
大沢村の名主などが文化5(1808)年頃に建設した水車が、峯岸家の所有となったのは9年後のこと。峯岸家は水車経営に重きを置き、住まいも野川沿いに構えた。
主屋は四間取りの典型的な農家の造りで文化10(1813)年頃に建てられたと伝わる。水車守は、水路のさぶたで水量調節をしたり、ゴミが流れこんで水輪を壊さないよう毎夜深夜に起きて点検をしていたという。
水車小屋は昭和43(1968)年頃の野川改修時に建て替えられるまで主屋を超える規模で、日本有数の動力水車を収め、水輪脇では穀物の袋詰作業もできた。峯岸家は明治後期に養蚕も手がけるが、主屋が作業場と化す繁忙期には、水車小屋に家族が揃って寝たというエピソードも残っている。
米や大麦、武蔵野で良く食べられたうどんの原料、小麦。それらを精穀・製粉する杵や搗き臼、挽き臼が水車の生みだす力で動いた。秋や冬には大麦、夏には小麦の取り扱いが多く、水車は休みなく回り続けた。それはすなわち峯岸家の忙しさであり、いつも水車の音が暮らしの中にあったと5代目の故・峯岸清氏が回想している※1。
旧峯岸家は水車停止後も良好に保存され、近年、東京都や三鷹市の文化財に指定されている。
東京都三鷹市大沢6丁目10-15