和風の母屋と八角塔屋を持つ洋館が一体となった民家です。型にはまらない設計・デザインは、当時のハイカラな流行に敏感だった施主の趣味と棟梁の勉強熱心が造り上げた傑作です。
当時のハイカラな流行を取り入れた洋館の内部は、オリジナルな大正洋風様式の造り。
福島県の北端に位置する国見町は、奥州街道と羽洲街道の交わる交通の要所です。その地に、1921年(大正10年)に建てられた奥山家は、この地方では数少ない和洋両方の接客空間を備えた木造の住宅建築です。
住宅は、東西に延びて南側の庭園に面する入母屋造り土瓦葺きの和風主棟(240?u)と、東南隅に建つ寄棟造りスレート葺きの洋館(105?u)をつなぐように東面中央に玄関を配したL字型平面の木造平屋建て。大工棟梁は不明ですが、細部にわたる意匠は当時の繁栄ぶりをもの語り、豪商の趣味と勉強熱心な棟梁とが生んだ傑作と言えます。
奥山家は、天保年間(1840年前後)から昭和初期にかけて、呉服屋・地主・金融業などを営む一方、北海道には広大な山林を所有し、秋田で製材所を営んでいました。主棟には、自社の製材所から運ばれたヒノキなどの木材が使用されています。
主棟は、南面に面して西から上段の間(12畳)、次の間(10畳)、前の間(12畳半)から構成されています。松竹梅鶴の欄間の彫り物をはじめ、板襖には入念に彫られた100体の七福神など、職人の技能が発揮された作品が多く見られます。
奥から上段の間、次の間、前の間と続く座敷の室境には凝った意匠の欄間彫刻が施されるなど、当時の豪商ぶりをうかがえる。
この地方では数少ない和洋両方の接客空間を備える奥山家。
和風主棟と洋館をつなぐ式台玄関の天井は、折上げ格天井。天井板の勢いある竜の彫り物からは、当時の景気のよさや繁栄ぶりがうかがえると同時に、美に対する心遣いが伝わってくる。
上段の間の奥にある、書院造の床の間と床脇は、優しい表情の造りが特徴で、女座敷とも呼ばれる所以である。
主棟の南側に配される庭園は、池泉回遊式庭園。その庭と座敷をつなぐ緩衝空間でもある縁は、この地方で四五縁と呼ばれる4尺5寸幅(約138cm)の広縁です。軒の高さと庇のバランスが計算された設計で、差し込む日の明るさを加減し、座敷と広縁と庭を一体的に見せることで奥行きを感じさせる造りに。
当然のことながら、上段の間からの池泉回遊式庭園の眺めが最もよく、障子を開け放つことで、内と外との連続した空間が広がる。
この地方で多く取り入れられている4尺5寸幅の広縁。天井は2本ずつの吹き寄せ垂木を見せる。縁側には、当時流行した曇りガラスと素通しの境目にぼかしを入れたガラスを採用。
洋館は、自由な発想によるオリジナルな大正洋風様式です。外壁は、石張りの大壁造、土台は高積石で、窓の上部等には、笠石が装飾されています。床高を1m以上も高く取り、通風口を設けることで、床下が傷みにくい構造になっています。主棟も同様に、床高を2尺(約60cm)にすることで、湿気を防いでいます。
また、この地にかつて大火があったことからか、主棟と洋館をつなぐ引き戸は鉄製で、洋館には延焼しにくいように対策が講じられています。敷地内の建物配置も住宅を中心に、土蔵や石造の蔵に囲まれ、防火・防風も考えられています。土蔵等のない南側に面する洋館も、屋内の側にシャッターが取り付けられるなど、防災への工夫が随所に見られます。
洋館の天井は、2階の高さほどあり開放感のある空間。当時南面に煙突と石炭ストーブが設えられていたものの、冬季には火鉢を囲んで床に座るスタイルでも使用されていた。
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