住まいは文化

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2010年6月23日更新

先人たちが遺してくれた住まいづくりの知恵 「住まいは文化」

東京都文京区 旧磯野家住宅「銅御殿」

明治大工の創意が宿る近代和風の屋敷


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大正元年に建てられた「旧磯野家住宅」。銅板の屋根と外壁から「銅御殿(あかがねごてん)」と呼ばれ、明治の大工の高い技術と創意がうかがわれる近代和風の住宅です。

西側正面の車寄せと銅板葺きの屋根が印象的な木造3階建ての和風建築。

伝統技術と大工技術の創意が融合した
震災でびくともしない頑強な住宅建築

緑豊かな景観が残る東京・文京区小石川に、明治・大正の時代に山林王として知られた磯野敬氏が自邸として建てた木造3階建て、近代和風建築の住宅です。1912年(大正元年)に完成、屋根と外壁を銅板葺き、銅板張りにしたことから通称「銅御殿(あかがねごてん)」とも呼ばれ、関東大震災や戦災もくぐり抜けた、東京に残る数少ない邸宅建築の一つです。社寺の建築様式など伝統的な木造建築の技法と、明治の大工の創意と工夫を融合させた建築が近代和風建築として高く評価され、2005年に国重要文化財に指定されました。

正面、車寄せの庇部分。刳型の折上鏡天井と軒の化粧扇垂木が規則正しく並べられ、当時の大工の確かな技術がうかがえる。

外まわりの軒は垂木の化粧屋根裏のあらわし。


社寺建築の手法が住宅用にアレンジされ
取り入れられた「旧磯野家住宅」

小石川の湯立板に直面した正門は、尾州檜の太い丸太材を柱に用いた四脚門です。屋根を支える太い丸太は、檜の風合いを大切にしながらも耐久性を高めるために焼き丸太が使用されています。屋根裏は均一の丸太が垂木のように整然と並べられ、軒先が緩い曲線を描く屋根は重厚な中にも、軽く見えるようにデザインされています。

釘が1本も使われていない四脚の大門。軒先が緩い曲線を描く屋根が厚い板扉を風雨から守っている。


門をくぐり奥に進むと、銅板で葺かれた屋根の一部が見えてきます。社寺建築で見られる箕甲納め(みのこおさめ)(※)の印象的な屋根は、完成した当時には光り輝いていたと言います。

旧磯野家住宅は、中央の3階建ての応接棟、東側の平屋建ての書院棟、北側の平屋建ての旧台所棟で構成。応接棟は、2、3階にも応接間が配置され、それぞれ客を迎えることができるよう配慮されています。

書院棟は、畳廊下と板廊下に囲まれた座敷が東西一列に並び、奥から床・棚・付書院を設けた座敷(奥書院)、次の間、さらに押し入れを介して控えの間と続いています。旧台所棟は、台所を中心に洋室、和室、浴室などで構成されています。

※箕甲納め
 
切妻屋根の妻側の端の納めを、簑(みの)をかぶせたように丸みのある円弧状にしたもの。

奥書院北側の畳廊下。庭の花木が南向きに咲くことを計算して廊下は北側に配置。ガラス越しに庭園が楽しめるようになっている。

高い天井で広がりのある「奥書院」。壁は左官の名人が11層も塗り重ねた丁寧な造りで、関東大震災でもヒビが入らなかったという。


築100年。寸分の狂いもなく建つ姿が示す
耐久性の高さ

旧磯野家住宅は、建築にあたって施主が「寺院風で地震と火事に強いこと」を望みました。そのため、耐震性を考慮した木組みとし、屋根は軽い銅板葺き、外壁も銅板張りとすることで耐震性、耐火性を高めています。また、書院棟と応接棟・旧台所棟を独立して建てることで、地震による損壊を広がりにくくしています。

完成までに8年を費やしたと言われる旧磯野家住宅は、御蔵島産のクワ、ベルギーから輸入した微妙な凹凸のある板ガラスなど、資材の調達から、設計・施工・仕上げのすべてにおいて独創性と確かな技術が発揮されています。

棟梁の北見米造氏は、書院造りや茶室にも造詣が深く、多様な窓の形式や障子の組子のデザインにもその影響がうかがえます。

あかり取り窓。幾何学模様が目を楽しませる。

緩いアールをつけた階段の踏み板。あがりやすさとデザイン性に配慮している。

邸内で随所に展開される建材、建具は、木が本来持つ木目の美しさを積極的に活かしており、訪れる人の目を楽しませてくれます。大震災、戦災を経た、築100年の旧磯野家住宅が、いまだに寸分の狂いもなく凛として建つ姿は、明治時代の優れた大工技術と木造住宅の耐久性の高さを十分に物語っています。

応接棟2階の天井部分。神社仏閣の天井を模したもの。ケヤキの自然な節穴を四隅に配すことで、板の厚さを見せながら換気も兼ねている。


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