明治の中ごろから大正にかけて最盛期を迎えた北海道のニシン漁。積丹半島の東にある余市も豊漁にわき、裕福な網元が次々と誕生。番屋で漁師と暮らしながら製品加工までも行う「漁場(ぎょば)」を経営しました。旧余市福原漁場には、当時の施設が残されており、昔日の面影を伝えています。
番屋内の漁夫溜まりは、やん衆(漁師)の寝床兼食堂。早春の3カ月をここで暮らし、ニシンを獲った。豪雪地帯ならではの太い梁や柱が目を引く。
サハリン沖から産卵のために南下するニシンを獲るため、江戸時代後期から北海道には青森や秋田、岩手から多くの人が渡ってきました。ニシンの漁期は3月下旬〜5月。その内、群れが沖に現れるのは2週間ほどに過ぎませんが、一度、群れが押し寄せると海は白く泡立ち、ニシンが波のように盛り上がって見えたと余市の古老が伝えています。
主要加工品のシメ粕(肥料)は本州で木綿や藍の増産に貢献。高値が付いたため、余市には40もの大宅(裕福な網元)が軒を連ねました。
こうした網元が出稼ぎ漁師と暮らしたのが番屋で、なかでも極めて大きく、豪華なしつらえの建物が鰊御殿と呼ばれました。旧余市福原漁場は1880(明治13)年から福原才七が営んだもので、漁場とは、海と、番屋や加工施設も含めた一式を指す特有の言葉です。
番屋は漁場の中心的な建物。漁場経営者は福原家から小黒家、川内家へと推移した。
番屋内部は漁師が生活する漁夫溜まりと、網元と家族が住む2列3間、計6室の畳の間が、庭(土間)を挟んで配置されているのが特徴。間取りが東北の民家に似ているのは、網元の多くが東北出身だったからと言われています。
漁夫溜まりは板間で、床の一部の板を上げると飯台になる仕組みです。いろりに薪をくべるのが暖を取る唯一の方法であり、屋根には煙出しがみられます。出窓がある二重の窓も寒さをしのぐ工夫でした。
出窓を設けて窓を二重にし、間の空気層で断熱効果を高めた。
いろり端は船頭など、上役の寝床。若い漁師は壁際の2階にあたる位置に作られた寝台で休みました。この立体構造によって限られた空間を活用し、福原家の後、最後の経営者となった川内家の時代には数十人もの漁師が、ここで生活したのです。
旧余市福原漁場には身欠きニシンの干場や製品を貯蔵する石蔵、漁師との契約書や網元の調度品を納めた文書庫もそろっています。また、施設が当時の場所に残されていることも貴重で、国の指定史跡になっています。
流しへは敷地内の川から銅製の樋で水を引いていた。主食は白米、おかずはニシンの汁物や塩煮などで、2、3人の女性炊事係がいた。
親方家族の部屋は全て畳敷き。欄間や床の間のしつらえ、北前船で運ばれた調度品に暮らしの豊かさがうかがえる。
親方は漁夫溜まりに向いていろり端に座り、漁師がけんかや賭け事をしないようににらみをきかせた。そのために、建具中央はガラスになっていた。ここから浜の様子も見えたという。
内臓を取り除いたニシンを干し、身欠きニシンを作った納屋場。加工製品は北前船で日本各地へ出荷された。
漁の最盛期、漁師は日に4、5度も食事をした。漁夫溜まりの板間は飯台になり、わらの長靴を脱がずに利用できた。
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