近江商人は、江戸期から昭和初期に近江国(現・滋賀県)の各地に本宅を構えて地元の産物を地方へ、地方の産物を上方へ流通させる商いで活躍した人々。そのうち、日野を拠点とした商人の一人、山中兵右衛門の屋敷が近江日野商人館として公開されています。昭和11年竣工の屋敷は不況下の職人を救済する「お助け普請」であり、地域との共栄を信条とした日野商人の心を伝えています。
「お助け普請」として語り継がれる旧山中兵右衛門家の奥座敷。地元の職人が、より多くの仕事を得られるように費用も時間もかけて建てた
旧山中兵右衛門家は昭和7年の着工。当時の日本は相次ぐ恐慌による不況下にあり、日野でも多くの人が職を失っていました。日野商人にはこうした時期にあえて屋敷を新・改築し、地元の大工や左官、石工、まかないを注文する料理屋にお金が流れるようにする伝統があり、これを「お助け普請」といいました。
「八幡表に、日野裏」。近江商人の屋敷は地域によって特徴が違うことを表す言葉です。江戸期から京・大坂に大店を営んだ八幡商人は、広告塔の役を果たす屋敷の「表」を重視しました。一方、日野商人は関東の地方都市に小規模ながら多数の出店を展開。日野の本宅は質素な表構えで城下町の町並みと調和する造りとし、外からは見えない「裏」、すなわち来客用の奥座敷に資金をつぎ込みました。
施主である6代目当主も奥座敷に贅を凝らします。床柱の四方まさ目の杉、床かまちの黒柿、違い棚に使われた玉目のケヤキなど、希少な銘木をふんだんに用い、細部にわたって細工の指示を出しています。
「廊下用の材木は通常、杉やヒノキが多いですが、節が無くヤニの出ない赤松を探させました。難しい注文で工期が長くなり、多くの人手が必要になることを見越してのことです」と、お話し下さったのは館長の満田良順さん。こうして日に約40人の職人が働き、4年がかりで屋敷は竣工しました。
商売人らしく進取の気性にあふれたしつらえも旧山中家の見どころです。当時は珍しかった電話や水洗トイレを備え、1階には洋式の応接間が設けられています。粋な小窓から光が入る総ケヤキの階段は現代に通じる優れたデザイン。館内随所に段差を解消したバリアフリーの敷居があるのも昭和初期とは思えない先進性です。
旧山中家は日野商人の典型的な本宅の姿を伝える建物として、国の登録有形文化財になっています。
床柱は、とても大きな原木からしか取れない最高級の四方まさ目の杉
桟の意匠が美しい付書院の障子。棚板は玉目と呼ばれる高価なケヤキで、渦状の模様がある
右の天井板は杉のまさ目、左は年代物の屋久杉の一枚板。全ての板の色目がそろった貴重な素材を使用
さお縁(左)や障子の桟には猿頬(さるぼう)の技法が見られる。猿の顔の輪郭を思わせる面取りで柔らかな風合いに
廊下の床板はいずれも継ぎ目の無い10mにおよぶ赤松の一枚板
ふすまの引き手は七宝焼。ふすま絵を派手に描くことはせず、さりげない部分に手間をかけることを好んだ
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