沖縄の伝統的な住まいには日本と中国の影響が見られ、厳しい暑さや台風といった亜熱帯気候に耐える工夫にも特徴があります。中村家住宅は18世紀中頃に建てられた豪農の屋敷で、国の重要文化財に指定されています。
南と東の開口部は広く、風が家を通り抜ける。手前が一番座。続く二番座は先祖の位牌をまつる、いわば仏間。先祖崇拝を重んじる沖縄では仏間を家の中心に置く。
日本本土のはるか南西、東シナ海に位置する沖縄は、古くから日本だけでなく中国とも深い関わりがありました。このため、伝統的な住まいには両国の影響が見られます。また、厳しい暑さや台風といった亜熱帯気候に耐える工夫にも特徴があり、沖縄ならではの建築様式が育まれました。中村家住宅は18世紀中頃に建てられた豪農の屋敷で、1972(昭和47)年の沖縄本土復帰と同時に国の重要文化財に指定されています。
屋敷の東・西・南は石垣で囲み、北は自然の斜面によって台風の返しなどの北風を防ぐ。南に見える防風林は樹齢300年ほどのフクギ。多孔質のサンゴの石垣と赤瓦が温度上昇を抑えている。
中村家住宅の母屋と離れ座敷は、1750年頃、3代目・まつ仲村渠(ナカンダカリ)が首里(※1)で士族の住まいを購入、移築したものといわれています。
当時の琉球王国では、建築の際に中国の風水(※2)(フンシー)を重要視しました。中村家でも南向き緩斜面の北側を掘り下げて敷地を拓いていること、建物正面が南から西へ15度ずれた方角に向いていること、首里の役人を泊めるための離れ座敷や客間(一番座)を良い方角とされる南東に配置していることなど、随所に風水の考えを取り入れています。
一方、建築形式は日本本土の木造建築の流れをくんでいます。沖縄で貫木屋(ヌチジヤー)と呼ばれる形式は、寺社建築などにみられるもので構造部材にほとんどくぎを使用しないのが特徴の一つ。屋根の反りも影響を受けているといわれます。
貫木屋以前の住まいは掘建て小屋のような簡素な造りでしたが、貫木屋になり、天候に対する工夫も多様化しました。
漆喰で固めた赤瓦屋根や、敷地の3方を囲む琉球石灰岩の頑丈な石垣は台風への備え。ことに南側にはフクギも植えられて、台風がもたらす南東からの暴風雨を防いでいます。屋根は庇のように長く、「雨端」と呼ばれる形になり、雨や厳しい日差しをしのぐのに役立っています。表の座敷は間仕切りをせずに使うことがほとんど。そうすることで、穏やかな南風が家を通り抜け、暑さを和らげてくれるのです。赤瓦の下に多くの葺き土を盛るようになったことも断熱効果に一役かっており、「日の当たらない家の中は、外部より4、5度、温度が低い」と言われています。
太平洋戦争で、戦禍に見舞われた沖縄では伝統的な住まいのほとんどが失われました。沖縄らしい特色を今に伝える中村家住宅は貴重な遺構となっています。
かまどの奥に家を守る神、火の神(ヒヌカン)が祭られている。もとは極楽浄土(ニライカナイ)を遥拝していたが、中国の道教のかまど神と融合し固有の信仰となった。竹が葺かれた屋根に、息道(イーチミー)と呼ばれる通気孔が見える。屋根裏は薪や食料の貯蔵場所として利用した。
一般的には建物の南と東に庇のような雨端(アマハジ)を設け、雨と日差しを遮る。建物外周の腰下部材の腐食を抑える効果もある。
高さ2mを超える石垣。門扉はなく、奥に顔隠し塀(ヒンプン)を設けて母屋を見通せないようにしている。顔隠し塀は中国の屏風門にならったもので、真っ直ぐにしか進めない邪気の侵入を防いだともいわれる。
柱材は、当時の農民には使用が禁止されていたイヌマキとモッコク。防虫効果があるイヌマキを、水に強い根元の部分から雨端柱に利用している。
敷地の北西に作られた豚の飼育所。石囲いの手前に人間の便所があり、排泄物が豚の飼料になる仕組みだった。
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